第17話 そんな事知るか

隠し通路は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。


壁を伝う魔力灯の淡い光が、長い石の回廊を照らし出している。


その光は青白く、冷たい。だがどこか、導くような優しさを湛えていた。


湿った空気は重たく、足音ひとつが石に吸い込まれるように響く。人の侵入を拒むような静けさの中で、ラジェールは無言のまま歩みを進める。その顔には怒りも焦りも浮かんでいない。ただ、ひとつの“意思”だけが確かに宿っていた。


どこまでも続くかに思えた回廊の終点、まるで壁にしか見えなかった石が、魔力の気配とともにゆっくりと崩れ落ち、新たな空間が姿を現した。


そこは、まるで別世界だった。


整然とした室内。洞窟の延長とは思えないほど人工的に整えられた空間には、四方の壁に沿って無数の本棚が並び、古文書や薬瓶、魔導具の数々が整然と収められていた。それらはまるで息を潜め、ただ時の経過を静かに見守っているかのようだった。


そして、部屋の中心には――


ひとつの水槽があった。


透明な容器の中に、青く淡い液体が満ちている。その液体に浮かぶようにして、一人の女性が眠っていた。


漆黒の髪が水中でゆらゆらと漂い、白磁のような肌が月光を思わせる柔らかな光を放っていた。彼女の瞼は閉じられ、まるで今も夢の世界に漂っているかのように穏やかだった。


水槽の表面には、魔力の膜が薄く張られている。ゆるやかに波打つその膜は、まるで魂そのものが震えているようで――その存在が、まだここに“生きている”ことを訴えていた。


ラジェールは、ただ静かにその光景を見つめていた。


神聖な祈りの場に立っているかのように。あるいは、魂の残響に耳を傾ける巫のように。


だが――


その静けさを破る声が、背後から静かに響いた。


「……それ以上、近づくのは遠慮していただきたい」


低く、掠れた声。振り返ると、部屋の隅から一人の男が姿を現した。


白衣を着た中年の男。その顔には深い疲労と、にじむような罪の影が刻まれていた。


「……はじめまして。呼んでたのは、あんたか?」


ラジェールは男に背を向けたまま、水槽を見つめながら問いかけた。だがその声は、確かに男の胸へと届いていた。


「“黒衣の医師”などと呼ばれているのは、あの人の名残です」


男は重く首を振った。


「私はただの、しがない医者です」


言葉の節々に染みついた疲労と後悔。それでも、声にはどこか諦めがあった。


静寂がふたりの間に降りる。


「……貴方は、私を裁きに来たのですか?」


その問いは、まるで判決を待つ囚人のそれだった。


ラジェールは答えない。水槽の中の彼女を、ただ静かに見つめ続ける。


「ならば、あの人の罪も一緒に裁いていただきたい」


男の声に、わずかな熱が混じる。


「あの人は、私に禁呪を託した。そして、その代償として……この病の因子を売るように言った」


「私は……私はただ、彼女を救いたかっただけなんだ……!」


椅子の背を握る手が、震えている。


だがラジェールは、一歩も動かずに口を開いた。


「……さっきから、ごちゃごちゃうるせぇな。独り言なら他所で言ってくれ」


その声音は鋭かったが、どこか優しさを含んでいた。


「俺は、お前の話なんざ聞いてねぇし、そもそも話すつもりもねぇ」


そう言って、水槽を指差す。


「俺が話してるのは、彼女だ」


男が息を呑む。


「彼女が俺をここに導いた。――そして、今回の依頼人だ」


ラジェールは男を真っ直ぐに見据える。


「“あんたを、救ってくれ”――それが彼女からの依頼だ」


言葉の意味を理解するまでに、男の脳は数秒を要した。


まるで何度も瞬きを繰り返し、現実に適応しようとするかのように。


「俺はあんたの過去にも信条にも興味はねぇ。そんなこと知るか。ただ、彼女の話を聞いた。それだけだ」


沈黙。


ラジェールは水槽に目を戻し、静かに告げる。


「ここには、まだ彼女の魂が残ってる。そして、媒介も綺麗に残ってる」


男の目が見開かれる。


「……何が言いたい?」


「長くはもたねぇ。でも、最後の言葉くらいは聞けるかもしれねぇ」


水槽の光が、わずかに脈動した。まるで応えるように。


「俺ならできる。――どうする?」


間を置いて、ラジェールは静かに問う。


「本物の禁呪に手を出す覚悟はあるか?」


沈黙。今度のそれは、深く、永く、息を呑むような時間だった。


そして――


男は、小さく、しかし確かに頷いた。


「……この手はもう、とっくに汚れてる」


「禁呪の一つや二つ、いまさら躊躇う理由なんてないさ」


ラジェールは鼻で笑う。


「よし、覚悟は受け取った」


そして、ほんのわずかに笑みを浮かべた。


「でも安心しろ。禁呪を使うのは、俺だ」


「やるのは、紅く染まりきった俺の手――あんたじゃない。関係ねぇ」


男の目が、また見開かれる。


「お前の手は、まだ“綺麗すぎる”よ。だから、禁呪なんか使えない」


ラジェールは、そっと水槽へと歩を進める。


その足取りに、先ほどまでにはなかった柔らかさがあった。


水槽の光が、ゆるやかに強まる。


それは、ラジェールの仕業か。

それとも、彼女の意志か。


隠れて見ていたエイミーには、わからなかった。


ただひとつ確かなのは――


その光が、とても優しかったということだけだった。

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