言葉の灯(ともしび) ― 漢字が導く十三の物語 ―』
Algo Lighter アルゴライター
第1話 心の在処
“心”という字は、胸の奥にしまっておくには少しだけ、やさしすぎる。
【1】
灰色のビル群の隙間から、夕陽がまるで血のようににじんでいた。
都心の病院の一室、白いカーテンがわずかに揺れ、時計の針が秒を刻む音だけが響いている。
「今日も“感情”が、わからなかった?」
ベッドの上に座る青年に、医師の女は問いかけた。声は穏やかだったが、どこか確信めいていた。
青年の名は佐久間蓮(さくま・れん)、二十九歳。
外傷はない。だが彼は、自分の「心」が空っぽになったようだと言う。
笑っても、怒っても、泣いても――それが自分の本心か、ただの模倣なのかわからない。
二年前、婚約者を事故で失った日から、彼の“感じる”機能は、曖昧になってしまった。
「喜怒哀楽って、こんなにうさんくさいものでしたっけ?」
佐久間は苦笑する。
医師は彼の表情を見つめたまま、言葉を選んだ。
「“心”ってね、心臓をかたどった象形文字なんです。
だから昔の人は、感情も、考えも、全部“ここ”に宿ってるって信じてた。」
「心臓に、感情……ですか」
「そう。胸の奥で動いているもの。ふだんは意識していないけど、止まるときだけ、人はそれを思い出す。
感情も、それに似てると思いませんか?」
佐久間は黙った。
ただ、そのとき、胸の奥がほんの少しだけ、ちり、と熱を帯びた気がした。
【2】
病院を出ると、秋の風が頬を打った。
雑踏、電車の揺れ、ネオンの明滅。
都会の夜は何かを覆い隠すように華やかだった。
佐久間はなぜか、母校の裏山に足を向けた。
幼い頃、ひとりになりたいときは決まってそこに登った。
誰にも言えなかった胸のうち――「心」は、昔のほうがずっと重たかった。
山の中腹にあるベンチに腰をおろすと、枯れ葉が風に巻かれていく。
「“心”が心臓か……」
呟くと、ふと、ある記憶が蘇った。
事故の一週間前、婚約者から届いた短い手紙。
便箋の端には、彼女のやわらかな筆跡でこう書かれていた。
「れんへ。
わたし、あなたの無口なところも、怒った顔も、すきだよ。
ぜんぶ“心”から来てるんだって、ちゃんと知ってるから。」
あのときは、恥ずかしくて笑ってしまった。
でも今、その言葉が胸を刺す。優しく、深く、焼けるように。
そして彼は、ようやく気づいた。
心を失ったわけではなかった。
心が痛みすぎて、火傷を恐れて、蓋をしていただけだったのだ。
【3】
数日後、佐久間は病院に戻り、女医に言った。
「…俺、まだ“心”を持ってるかもしれません。」
「どうしてそう思ったんですか?」
「“忘れた”と思っていた人の言葉で、胸が痛くなったんです。
それが、嬉しかった。」
医師は静かに頷いた。
「それなら大丈夫。
心って、鼓動と似てますから。感じようとしたときから、もう動き出してるんです。」
窓の外には、秋の陽光が差し込んでいた。
その光が彼の胸の奥、小さくて確かな灯を照らしていた。
✴️ 登場漢字:心
● 字義:こころ。感情、思考、精神の中心。
● 成り立ち:心臓の形をかたどった象形文字。
● 象徴性:感情の源、ゆれ動く人間性、内なる鼓動。
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