7 薔薇と茉莉花②
ムルジャーナは笑いを引っ込めて、声の主へ目を向ける。新緑色の瞳からは、先ほどのまでの気さくさが消え、棘に覆われた薔薇のような、ささやかな鋭さを帯びた。
「まあ、ヤサミーン様。さすが奴隷上がりの第一夫人様は気位が高くていらっしゃるのね」
第一夫人ヤサミーンは、星夜を溶かして固めたかのように艶やかな漆黒の髪と瞳を持つ、ほっそりとした女性だ。光沢のある真紅の長衣を纏い、臍の辺りで両手をきっちりと握り締める姿勢の良い姿からは、どこか厳格な印象を覚えた。気品のある第一夫人が奴隷出身だと聞き、アマルは耳を疑ったほどだ。
ムルジャーナの皮肉を浴びて、ヤサミーンは細い眉を微かに動かしたが、淡々とした表情を崩さない。
「高貴な生まれの第二夫人様は、下賎の者にご興味がおありだようで」
「下賎? アマルは少なくとも誰かの所有物ではないわ。あなたと違ってね。それでヤサミーン様、何をしにいらしたの。用がないのなら、帰ってくださらない?」
「退魔師とやらの顔を見に来たのだ。しかし大したことはなさそうだな。このような腑抜けた顔の娘に、宮廷を揺るがす事件を任せることが果たして得策か」
腑抜け。
当然、田舎じみた若輩者の容姿に頼り甲斐はない。その上、口を開けば無教養が露呈するのだという自覚はあったものの、初対面にもかかわらず険悪な言葉に一突きされて、アマルは少し落ち込んだ。
貴顕を前に、ただ頭を垂れるアマルだが、ムルジャーナが反撃してくれる。
「彼女が退魔師として信頼できるかどうかは、私が判断するわ。だって、我が子のことだもの。母親になれなかったヤサミーン様にはわからないでしょうね。我が子を託す相手に求めるのは、有能さだけではないの」
話が読めないのだが、どうやら事件は、ムルジャーナの子が関連しているようだ。これは想像よりも大仕事かもしれない。
「果たしてイフサーン王子は本当に陛下の子か?」
「滅多なことを言わないでくださる。下卑た思考ね」
「だが煙のないところに噂は立たない。第二夫人の側に親密に近づける男が一人だけいると、一時期ハレムで話題になっただろう」
「彼は祖父たちの弟子よ」
「その割に親密過ぎる様子だが」
「あら、彼は家族同然だもの。それに、あの子は女性と仲良くなるのが上手いの。あなたも女官たちの噂話で色々と耳にしているでしょう」
「どうだかな」
「……」
「……」
二人の夫人の間で妖霊もかくやの火花が散っている。部屋中の空気が緊迫し、壁際に控える女官らも息を詰めて成り行きを見守っている。
その中で、ムルジャーナ付きの赤毛の女官だけは、何か言いたげに拳を握っていた。さすがに、第一夫人に拳を突き出すことはなかったが。
永遠とも思える時間が過ぎ、先に身を引いたのは、ヤサミーンだ。
「まあ好きになさい。何が起ころうと、私の知ったことではないのでな」
ヤサミーンが踵を返すと、第一夫人付きの女官らもムルジャーナに軽く一礼して後に続く。その途中、ある女官の耳朶から耳飾りが外れて落下した。上質で柔らかな絨毯は、衝撃と落下音を吸収し、アマル以外に落とし物に気づいた者はいないらしい。
「あ、あの」
慌てて膝を折り、銀の耳飾りを拾う。紅玉が連ねられた、見るからに高価な装身具だ。元々しっかりとした重量があるのだが、見た目が発する圧のためか、いっそう重たく感じ、アマルは両手を椀のようにして耳飾りを掲げて女官を呼び止めた。
「これ、落としましたよ」
振り返った若い女官は、ぎょっとしたように目を見開いた。アマルの瞳を見て例のごとく顔を青くして、ひったくるような勢いで耳飾りを受け取った。女官の指先が掠めるように触れた部分が、じんと疼く。
ほんの一瞬の出来事だったものの、一連の流れを見とがめたヤサミーンが、一歩アマルの方へと進み出る。良く見れば彼女の頬も引きつっている。気丈を装っているものの、アマルに怯えを抱いているらしいと知れた。それでも第一夫人は顎を上げ、毅然と言い放つ。
「我が女官の私物に触れるな、この妖霊女」
「あ、すみません」
「ちょっとヤサミーン妃、アマルはあの子が落とした物を拾ってあげたのよ」
「余計なお世話だ。……行くぞ」
主人の号令で、第一夫人付きの女官らも慌ただしく退室する。ムルジャーナと対峙していた時には澄ました表情をしていた彼女らだが、アマルが動き始めた途端に逃げ出すような恰好となった。慣れたこととはいえ、拒絶が胸に刺さる。
天井まで続く木製の扉が閉じると、第一夫人が纏うジャスミンの香油の残り香が、室内を漂ってから霧散した。
再び沈黙の帳が落ちる。奇妙な間に耐えられず、アマルは口を開いた。
「あ、あの、今回私をお召しくださったのは」
「ごめんなさいね、アマル。彼女、私をひがんでいるのよ」
唇を尖らせたムルジャーナと視線が重なる。
「元の身分のこともそうだし、そもそも最初から私の方が寵愛を受けていたの。第一夫人のお子は生後間もなく夭逝してしまったから、王子は私の産んだ子だけ。それに今は、王子が妖霊に憑かれてしまったことで、陛下のお心が私たち親子に向いているのよ。それがいっそう気に食わないのね。ああ神よ、妬みの邪視から守りたまえ。とにかく、理不尽に目の敵にされて気分が悪いわ。善意を悪意で返されて、あなたも嫌な気持ちになったでしょう? ねえ、ここだけの話だけれど」
ムルジャーナは声を落とし、アマルの耳元に囁いた。
「第一夫人を呪ってくれない?」
「は、はい?」
思考が全停止して、アマルは無様にも口を半開きにしたままムルジャーナを見つめた。新緑色の瞳はいたって真剣だ。アマル何度か瞬きをして正気を取り戻してから、大きく息を吸い腹に力を込めた。
「だめですよ!」
「あら、どうして。報酬は弾むわよ。もちろん、あなたがやったと知られないように守ってあげる」
アマルは唇を軽く噛み、無意識に右の人差し指の付け根を撫でた。今は外しているものの、常ならば鉄の指輪がある場所だ。
「悪意は増幅するんです。仕返しをしたら、さらに大きな悪意が戻ってきます」
それは、人生をもって学んだことだった。人間から「妖霊のようだ」と遠巻きにされても、妖霊から「人間の身体は軟弱だ」と憐れまれても、笑って受け流せば切り抜けられた。それ以上の悪意は生まれなかった。反対に、反撃しようとすれば必ず手ひどい仕返しを受けるのだ。
だからアマルは、悪事を働いた者を指輪で断罪することも好まない。誰かの敵は誰かの友であり家族である。誰かを害すことは、仇を生み出し、憎しみを増幅させるだけ。
罪の重さにもよるが、改心して罪を償えるのであればそれが最も穏便だ。
アマルの他人への態度を見て、媚びるようだと貶す者もあった。しかしアマルは、この独自の処世術で己の身と心を守ってきたのだ。
胸の中でぐるぐると言葉が回っている。この思いを、どのように伝えるのが最善か。口を開けてはまた閉じるというはっきりとしない動作を繰り返すアマルを、ムルジャーナは表情を変えずに見つめていたが、やがて口元を緩ませ、破願した。
「いやだわ、冗談よ!」
「冗談⁉」
ムルジャーナはころころと笑う。
「やっぱりあなた、面白いわね。でもこれでわかったわ。あなたは、金銭や権力に取り憑かれて善の道を踏み外すような人ではない」
「はあ」
「あなたなら信用できそうね。では改めて、正式に依頼するわ。妖霊に憑かれた私の息子……王子を助けて欲しいの。受けてくれる?」
「王子様が憑かれたんですか!」
思わず声が高くなり、赤髪の女官が眉を怒らせる。
「声が大きいわ! ムルジャーナ様の前で無礼な」
「良いのよ」
主人の声に、女官はしゅんと萎れた。ムルジャーナのために怒り、ムルジャーナの嗜められて項垂れる。どうやら彼女は、たいそう主人に心酔しているらしい。
アマルが何と思おうと、聖王の第二夫人の命令ならば、拒絶することは許されない。だというのに、形式だけでもアマルの意思を確認してくれるのは、ムルジャーナの人柄だろうか。
しかし、宮廷で、しかも王子に関わる仕事とは一大事だ。失敗すれば命はないのでは。
庶民、むしろ貧乏人と言っても過言ではない朴訥としたアマルは、煌びやかかつ重責を伴う世界へ半分足を踏み入れたことに今更ながら身震いした。
「あ、も、もちろんお引き受けします。でも、よろしいのですか、私などで」
「マシュアルが信頼した人だもの。それに、私自身もあなたを気に入ったわ。どこか問題がある?」
「いえ、滅相もない! でも私、こんな目の色でしょう。いつも人間に避けられるので、みなさまを不快にさせてしまわないかと心配で……。その、ムルジャーナ様は私が怖くないんですか」
「怖いわよ」
「ええっ?」
思わず素っ頓狂な声を上げたアマル。ムルジャーナは上品な声で笑い、ふんわりと広がる袖口を逆の手で軽く捲り上げた。柔らかな薄紅の布地の裏面に、赤い糸を用いた円形の護符が刺繍されている。どうやら防魔の図像らしい。
「これがあるから、仮にあなたが妖霊だったとしても危険はないの。だから平然としていられる。私ね、素人だけれど護符術についての知識はあるのよ。亡くなった父がね、宮廷占星術師だったの。妖霊については専門外でも、星の力を借りた護符で身を守ることはできるわ。ともかくアマル」
ムルジャーナは咲き誇る薔薇のような笑み浮かべて言った。
「あなたを第二夫人付きの宮廷退魔師に任じます。どうかよろしくね」
この日何度目かになる驚きと共に、アマルは権謀術数渦巻く宮廷へと招かれたのだった。
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