第三場

 ポート・ロイヤルの南側、のどやかな海沿いの、とある平凡な娼館。そこの一階、奥の方の小部屋。一人の用心棒がひまを持て余していた。彼はそのでかい図体を机に突っ伏して、つまらなそうに賽子さいころを指先で転がしていたが、にわかに裏戸が開く音。ぱっと顔を起こせば、戸口に立っていたのは伊達だて襟巻きクラヴァットをつけた同僚。すると彼の喜びたるや、勢い良く立ち上がった拍子に椅子が倒れたくらい。

「待ちくたびれたぞ! さ、早く始めよう。今日はつきが回ってるんだ」

 しかし同僚は素知らぬ顔で巨体を素通りし、小部屋の扉に向かった。女性の悲鳴が響いた時以外は開けてはならないそれを彼は躊躇ためらう事なく、そっと開けた。階段の方へ耳をませば、上階からは男女のくぐもった声やら寝台のきしむ音やら。しかし足音は一切しなかった。それを確認した彼は急ぎ足で再び戸口に立ち、外に向かって手招きをした。それからようやく大男に目を合わせたのだった。

「ダン、今までの負け分を全て帳消しにしてやるから、今夜はひとりで番をしてろ」

 大男が目を丸くした。

「全て? 今、確かに全てって言……」

 同僚から確かな言質を取ろうとしたダンだったが、目深な帽子で素顔を隠した旅装の者が入って来た事に絶句した。そのまま二の句を継げずにいるダンに、彼は念を押すように言った。

「全て、だ」

 そして旅装の者を連れて階段へと向かう同僚。ダンはその様子にただならぬ雰囲気を感じ取った。が、好奇心を抑え込むだけの理性を持ち合わせていなかった。

「そいつは誰だ?」

 同僚は心底呆れた溜息ためいきをついた。彼はその苛立いらだちを隠す事もなく大股でダンに近付き、胸ぐらを掴んで乱暴に引き寄せると、ダンにだけ聞こえるような小声で「よく聞けこの腐りかけの頬髭野郎マトンチョップ。この事を誰かに告げてみろ、両耳をゆぅっくりとぎ落としてやるからな」

 同僚の本業が海賊だと知るダンはその脅しが冗談ではないと理解し、慌てて丸太のような首を振った。ぶんぶんぐらぐら揺れるその巨体を見て再び溜息を漏らす同僚だったが、これだけはっきりと釘を刺せば大丈夫だろうと思った彼はダンを離してやり、連れと共に四階へと上がって行った。

 そこには階段を挟んで左右に屋根裏部屋が一部屋ずつあり、海に面した方が彼の間借りしている部屋。扉を開けると、ベッドと戸棚しかない小さな空間。それでも船では鼠にも劣る暮らしをする船乗りにとっては豪華な寝巣ねぐら。そんな自室の木窓を開ければ、月明かりをまとった潮騒しおさいが世話焼きな幼馴染のように上がり込み、仮初の儷かりそめのつれあいを演じる女優達の切なげな声を掃いてくれた。

「荷袋は適当に置いてくれ。よければ帽子と外套は預かるよ」

 無事に部屋に辿り着いた事に安堵してテレネに寛ぐくつろぐよう促すと、彼女も安心したように小さな溜息をついた。

「ありがとう」

 帽子が外され、再びあらわになる蜜柑色みかんいろの耳。つい目で追っていると、脱いだ外套と共に此方こちらに渡しながらその視線に気付いたテレネが慌てて耳を両手で覆い隠した。失礼だったかと此方も慌てて目を背け、彼女の外套やら此方の剣帯やらを戸棚に仕舞っていると、

「誰にも言わないから、ひどい事しないでね?」

 どうやらその獣の耳は飾りではなく、小さな話し声も聞き逃さない優れ物のようだ。

「女性を傷つけるようには育てられていない」

「私のこと殺そうとしたくせに?」

 悪戯いたずらっぽくとがめるテレネに、耳が赤くなる。

「本当に悪かったと思っている。でもあれは貴女あなたが急に驚かすから……」

「あなたがあまりにも美味しそうだったから、つい……。だからいけないのはあなただよ」

「大層な理屈だな」

 テレネがくすくすと笑った。

「それにしても、あなたはどうしてそんなに美味しそうなの?」

 まずは彼女についてたずねようと思っていたが、どうやら自己紹介が先のようだ。ぴったりと巻かれた襟巻きの上から首元を指で叩きながら、

「俺のここにはえらが付いている。………魚のような鰓だ」

 少女の目が獲物を見つけた獣のそれになった。

「貴女が嗅ぎつけたのはきっとこれだろう。何せこれ以外はただの人間と同じで、特別な事と言えば水の中でも自由でいられる息ができるくらい……」

 しかし彼女は話など全く耳に入ってないかのようにじっと首元を見つめている。それどころか少しずつ前のめりになりながら腰を右に左にふりふり。今にも飛びかからんばかりの雰囲気に、思わず拳銃ピストルへと手が伸びると、

「食べないから!」

 彼女が此方だけでなく彼女自身にも言い聞かせるように言った。

「食べないから。……でも味見したいな」

「さっきしただろう?」

「そこは布の味しかしなかった」

「だとしてもだめだ」

「一口だけ!」

 切実な瞳で乞う一口が本当に一口で済むはずがない。一口だけなら……と信じて許したが最後、もう一口、あともう一口だけ、と済し崩しに食べられる結末が目に見える。

「礼儀知らずになりたいのか?」

 くやしそうに口を結ぶテレネ。この一言で幾分いくぶんか理性を取り戻してくれたようだが、話題を変えねばまたいつ変な気を起こすか分かったものではない。それに元より危険を承知で連れてきたのは彼女の素性を明らかにするためだ。

「ともかく、俺は少しばかり特別な物が付いているだけで、人間だ。それで、貴女は何者だ? 猫だと言っていたけど、耳を隠していれば人間にしか見えないぞ?」

 それでも彼女は未練がましく首元を見つめていたが、此方の頑なかたくなな視線に諦めた溜息をつくと、息を吸うのに合わせて胸を張り、獣の耳もぴんっと張った。

「私は生まれも育ちも四本足よんほんあしまぎれもない猫だった。それはそれは見目麗みめうるわしく、出会う雄は皆が私の美しさをたたえた」

 自尊心の塊のである事はさておき、清貧なシャツにスカートを着こなした少女が、自分は元来猫だった、と言ってもにわかには信じ難い。たとえ彼女が常人離れした力を持ち、異形の耳を生やしていたとしても。

「ある日、下僕しもべの二本足について船に乗った」

 一つ探りを入れてみる事にした。

「待て、一体どうしたら猫が人間の下僕を持てるんだ?」

「向こうから望んでつかえていたよ。頼んでもないのにわざわざ美味しい物をそなえるのだから」

 言葉に詰まる事もなく高慢な台詞せりふを言って退けるテレネに、彼女を疑っていた事がばからしく思えてきた。人間の感性を持つ者ならばかてを恵んでくれる存在はあるじとして敬うはずだ。それをさも当然の如く下僕と見なすあたり、彼女は本当に人間ではなかったのだろう。が。

 それなら今の姿はどう説明するんだ? そう尋ねようとした矢先、威勢良く張っていた蜜柑色の耳が伏せられた。もしや話の腰を折った事に気を悪くしたかと案じると、彼女は視線を窓の外に移した。琥珀色こはくいろの瞳に、夜の底を垂らした群青色が混ざった。

「嵐に会って……。ぴかっ! って真白まっしろになったと思ったらとてつもない音がして。……思わず逃げてしまって、気付いたら海に落ちていた。怖くて、苦しくて、死ぬのだって思った」

 小さな猫が荒れ狂う海に落ちたらば、本来まず助からないだろう。しかしこうして目の前にいるからには何とか生き延びたのだ。

「目が醒めると浜辺に私だけがいた。下僕も、他の二本足にほんあしも、誰もいなかった」

 やはり奇跡的に助かったようだが、他の者にまでその奇跡が及んだかは分からない。かける言葉が見つからないでいると、テレネが視線を手元に戻し、

「そして私は気付いてしまった」開いた両手を恨めしそうに見つめながら「なぜか自分が………二本足になってしまった事に……」

 テレネが異形である理由。それは彼女が人間へと姿を変えた猫だからだが、一体どうやって猫が人間になったのか。その最大の疑問についてはどうやら本人も答えを持っていないらしい。早くも彼女から引き出せるものが無くなってしまった事が残念でならなかったが、それとは別に、彼女の言い方には何か引っ掛かりを覚えた。まるで大切なものを失ったかのような言い草を怪訝けげんに思っていると、彼女は理不尽を怒るかのように呟いた。

「私がこんな………こんなっ……みっともない姿に……」

「……まさかこの物語の悲劇は、自分が人間になった事だなんて言わないよな?」

 琥珀色の瞳が驚愕の眼差しを向けた。どうやら当たりのようだ。と呆れると、なぜか彼女まで呆れた溜息をついて、

「あなたは四本足だった時の私を見ていないものね」

 元の姿に並々ならぬ自信があるようだが、たとえ彼女の生まれ持った姿を見ていたとしてもこう考えるだろう。

「何かの奇跡でせっかく助かった上に新しい形になれたというのに、耳しか残らなかった事がそんなに——」

「耳だけじゃないよ!」

 威勢を取り戻したテレネがくるりと背を向けたかと思うと、驚く間も与えずにスカートを下ろし、シャツを後ろ手にたくし上げてあらわにした下肢を突き出した。突然の事に慌てて視線をらそうしたが、図らずも視界に入ったものに目を奪われてしまった。

 ほのかな明るさをたたえた白。混じりのない乳をこぼしたような、見ているだけで口の中に甘さ滴る白い素肌の両脚は、優雅に伸びてしなやかな肉付き。その上からこぼれそうな尻はきゅっと締まりながら柔和で上品な弧を描いている。しかし此方の視線を捕らえたのはその美しい曲線ではなく、さらにその先にあるものだった。

 両の尻が頬擦ほほずりして生まれた一筋の割れ目。その先端、尻と腰の境界点。人間の女性ならば猫の耳のようなゆるやかな三角形のくぼみが始まる場所。彼女のそこから尻尾しっぽが生えていたのだ。彼女の耳と同じく、短くもふわふわとした蜜柑色の毛並みの、先っぽに近づくにつれ色濃い部分と淡い部分が交互に輪を重ねるように並ぶ尻尾が。

 ぴんっと立てられているその細長い尻尾は、先っぽが妖艶にくねられていた。

「あなたも讃えていいんだよ?」

 肩越しに見つめるテレネは挑発的な笑みを浮かべていた。その笑みはきっと、残された真の姿への誇りなのだろう。察するに、雄猫おすねこが見れば彼女の尻尾はさぞ魅力的に映るに違いない。しかし此方からすればそれは只の獣の尻尾でしかなく、驚きこそすれ魅力を感じる訳ではない。とは言えそれをそっくりそのまま話すような無粋ぶすいな真似はしたくないので、驚きで呆けそうになる頭を無理矢理働かせ、辛うじて賛辞を捻り出した。

「綺麗だな。……耳と同じで」

 琥珀色の瞳が訝しげな視線を寄越した。やはり間に合わせの言葉では物足りないか。と再び頭を働かせていると、彼女は興味を失くしたかのようにしゃがみ、下ろしていたスカートを掴んだ。感じる必要のない罪悪感が芽吹いた。反面、彼女が身体を仕舞ってくれる事には安心した。が、あろう事かスカートを手にした彼女はそれを放り投げた。

「おい」

「で、その後は羊に出会って世話になった。そこで二本足の事は色々教わったけど、いざひとりで出かけたらあの有様ありさま。あなたがいなかったら今頃どうなっていた事やら……」

 俄かに登場した人間に通ずる羊がとても気になるが、今はそれどころではない。此方の動揺など気にも留めずに話を続けながら、彼女は靴に加え、上に着ていたシャツまでも脱いでいった。

 次第に露わになる、すらりと伸びた体躯。ふわりと柔らかそうな、それでいて余分な肉は欠けらもないその身体からだは、全ての輪郭が美しい曲線を描いていた。鎖骨から腕、指先に至るまで。胸からくびれ、その下へと。全てが艶麗に流れていた。

 だというのに本人はこの造形がお気に召さないらしい。人間の女性だったとしたらあるいは、年齢どころか性別すら怪しくなるような胸を気にするかもしれないが、彼女は猫だ、そんな事を嘆いているのではないだろう。しかしそうなると一体全体この新しい形の何が不満なのだろうか。唯々ただただ綺麗な曲線なのに……。

 そして、一糸いっしまとわぬ姿となったテレネが目の前に立った。

「助けてくれて本当にありがとう。寝よ?」

 まさかこれすら言葉通りに受け取れと?

「人間の男を褥に誘う事が何を意味するのか、羊は教えなかったのか?」

「あなたは匂いがしない」

 噛み合わない応えに頭を抱えそうになる。対して彼女は、んーん、と一度否定してから言い直した。

「あなたは美味しそうな匂いしかしない」

 微笑む獣の瞳、静かな舌舐めずり、甲高く輝く糸切歯。彼女の素足すあしが音もなく進み出る前に、此方の長靴ブーツはふためき後退あとずさっていた。

「二本足のおすは無礼者ばかりだった。私を見るなりこぞってこの下の連中のような匂いになるのだから。もちろん私は許しなんて与えていない。口煩いくちうるさい羊の言い付け通り、邪魔で仕方ない服も着ていた」

 端的に言ってテレネは可愛い。その顔を一目見れば、男なら程度の差こそあれ恋情を起こすのも想像に難くない。そしてどうやら彼女の鼻を以てすれば彼らの下心は筒抜けになるようだ。

「だけどあなたは私の体を見てさえ微塵もさかる気配がない。見ず知らずのめすを助けるほどに気骨のある雄だというのに……」

 煽情的に腰から歩くテレネ。一歩、一歩。追いかけっこを永く楽しもうとするかのようにれったい。しかし狭い部屋の中、壁際に追い詰められるのはあっという間。逃げ場を失った此方を可笑おかしそうに笑う彼女が両腕を優しく肩に回し、そっと囁いた。

「お魚さんじゃ猫はいや?」

 この猫、俺のもう一つの秘密にまで勘付いてやがる……のか?

「俺は魚じゃない」と、わずかな可能性に賭けて話の上澄うわずみに答えれば、

「それなら私も今は二本足だよ」と甘く誘う雰囲気を保ちながらも真直まっすぐと此方を捕らえる瞳が御託ごたくを許さない事を告げた。どうやら観念する他なさそうだ……。それに、文字通り全てを晒け出した彼女に隠すのはどこか間違っている気がしてきた。

「……俺には呪いがかけられている」

「二本足になったこと?」

「俺は初めからこの形だった。……はずだ」

 物心ついた時には既にえらの付いた人間だったから疑う事など考えにも及ばなかったが、もしや覚えていないだけで、此方は元来魚だったのだろうか?

 人間となった猫を前にして、未だ明らかになっていない己の出自に考えを巡らせたくなる。しかし彼女の問いへの答えはそこにはない。よもや出会ったばかりの相手に、隠し通してきた秘密を二つも明かす事になるとは夢にも思わなかった。

「呪いのせいで俺は………欲情できないんだ」

 テレネが胡乱うろんな瞳を向けた。

「この先もずっと?」

「いや……」

 思わず答えかけ、これ以上は律儀に打ち明けなくともよい事だと気付くも、手遅れだった。

「呪いを解く方法は?」

 見事に食いつかれてしまった。

「そこまでは言う必要がない」

 きっぱり断ると、彼女は何かを思い出すかのように視線を宙へ向けた。

「二本足の物語では口をぎ合わせると呪いが解けていたな……」

「ははっ、口付けか。試してみるか?」

 お伽話おとぎばなしのような方法で解ける程度の呪いではない事に加え、いい加減この猫に一矢報いたくて口にした冗談だった。しかしテレネが回していた手で此方の頭を柔らかく包んだかと思うと、躊躇ためらいもなく背伸びして桃色の唇を寄せてきた。

「歌だ!」

 只でさえ大きい琥珀色の瞳が目の前でさらに大きく見開かれた。

「特別な歌だけが俺を男にする」

 テレネは心底驚いたようにゆっくりと目を瞬かせていた。しかしゆっくりと綻ぶその目許、笑い出さんばかりに緩む口許。それはそれは大きな笑顔を咲かせた。

「……そんなに面白いか?」

「雌の許しがなければ盛ることがないのは当たり前だよ。二本足なのにその道理をわきまえられたのだから、あなたにかけられているそれは呪いじゃなくてもっとすてきな何かだと思うな」

 応えが噛み合わない事にはそろそろ慣れつつあるが、やはりその真意は分からない。だからそれを尋ねようとしたその時。彼女が目をつむり、小さな口をその大きさに見合わないくらいに開け放ってあくびをした。再び露わになる、鋭く伸びた糸切歯。首が思い出す、鋭い痛み。組み敷かれている訳でもないのに、体が動かない。

「寝よ?」

 とろんとした瞳で囁き、そっと手を引いてベッドへ誘ういざなうテレネだった。言葉通りに受け取って良いようだが、それでも応えられずにいると、彼女はその瞳と同じくらいに柔らかい顔色で、

「食べないから」

 胸中を見透かされていた。

「信用できない」と、柔らかな手を振り払って床に胡座あぐらをかいて「ベッドは使っていい」と言ったのにも関わらず、彼女までしゃがみこみ、何を思ったのか此方の両ももをそれぞれの手で交互に揉み始めた。

「……何をしている?」

「二本足の寝床は気持ちいいけど、体を合わせて寝るにまさるものはないよ」

 そして一頻ひとしきり揉んだ腿に身体を預けるようにして丸まるテレネ。彼女は瞼を閉じて深く一息吸い、満ち足りたような溜息をつくと、夢見心地に呟いた。

「今夜は美味しい夢が見られそう……」

 背筋が凍りついた。夢の中で彼女が何を食べるつもりか想像がついて腹立たしい事この上ないし、寝ぼけて現実でも噛み付かれたりしたらたまらない。慌てて彼女を抱きかかえて立ち上がり、何事かと目を瞬かせる彼女をベッドに降ろした。

「せっかく真面まともなベッドがあるんだ。使わないのは勿体無い」

「じゃあ一緒に——」

「俺は床で寝る」

 冷たく言い放つと、テレネの眉尻が寂しそうに下がった。心細げな少女を見ているとさすがに胸が苦しくなるが、まだ気を許す訳にはいかない。それに何よりも、この部屋で彼女と共に褥につく事はどうしてもできない。そう確固たる思いを胸に、壁際へと戻ろうとした。

 急に腕を引っ張られ、よろめいてベッドに手を着くと、柔らかな手が優しく頬に添えられた。琥珀色の瞳と出会った。次の瞬間、テレネの鼻が此方の鼻にそっとがれた。

 今度は此方が目を瞬かせていると、彼女は甘い蜜を垂らしたかのような瞳をゆっくりと開き、

「おやすみ」

「…………おやすみ……」

 くるるるる。と、猫が満足げにのどを鳴らした。そして、彼女は背を向けるように夜具に包まったのだった。

 対して此方は呆然としながら静かに後退あとずさり、壁際に腰を下ろした。思い出したように疲れが押し寄せ、水の中からおかへ上がった時のように体が重くなった。全て突然現れたあの猫のせいだ。出会頭であいがしらに食べられかけ、幾つもの疑問を残し、挙句に隠し通してきた秘密を吐かされた。こうなってはいっその事全てが酔っ払って見ている夢か幻なのだと願いたくなるが、悲しいかなそこまで酔った事は一度もないし、ベッドでゆっくりと上下する夜具は紛れもない現実。しかし何が最も不甲斐無ふがいないかと言えば、この状況で無防備にも眠気を感じている事だ。彼女の力を以てすればわざわざ寝首を掻くまでもないことは身に染みているが、だからと言って安心していい状況ではない。なのに控えめな規則正しい寝息が心地良い子守歌のように優しく瞼を重くして……いや、違う。美味い料理を食べ過ぎたせいだ。そうだ、そのせいだ……。

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