第三場
ポート・ロイヤルの南側、
「待ちくたびれたぞ! さ、早く始めよう。今日はつきが回ってるんだ」
しかし同僚は素知らぬ顔で巨体を素通りし、小部屋の扉に向かった。女性の悲鳴が響いた時以外は開けてはならないそれを彼は
「ダン、今までの負け分を全て帳消しにしてやるから、今夜はひとりで番をしてろ」
大男が目を丸くした。
「全て? 今、確かに全てって言……」
同僚から確かな言質を取ろうとしたダンだったが、目深な帽子で素顔を隠した旅装の者が入って来た事に絶句した。そのまま二の句を継げずにいるダンに、彼は念を押すように言った。
「全て、だ」
そして旅装の者を連れて階段へと向かう同僚。ダンはその様子に
「そいつは誰だ?」
同僚は心底呆れた
同僚の本業が海賊だと知るダンはその脅しが冗談ではないと理解し、慌てて丸太のような首を振った。ぶんぶんぐらぐら揺れるその巨体を見て再び溜息を漏らす同僚だったが、これだけはっきりと釘を刺せば大丈夫だろうと思った彼はダンを離してやり、連れと共に四階へと上がって行った。
そこには階段を挟んで左右に屋根裏部屋が一部屋ずつあり、海に面した方が彼の間借りしている部屋。扉を開けると、ベッドと戸棚しかない小さな空間。それでも船では鼠にも劣る暮らしをする船乗りにとっては豪華な
「荷袋は適当に置いてくれ。よければ帽子と外套は預かるよ」
無事に部屋に辿り着いた事に安堵してテレネに
「ありがとう」
帽子が外され、再び
「誰にも言わないから、ひどい事しないでね?」
どうやらその獣の耳は飾りではなく、小さな話し声も聞き逃さない優れ物のようだ。
「女性を傷つけるようには育てられていない」
「私のこと殺そうとしたくせに?」
「本当に悪かったと思っている。でもあれは
「あなたがあまりにも美味しそうだったから、つい……。だからいけないのはあなただよ」
「大層な理屈だな」
テレネがくすくすと笑った。
「それにしても、あなたはどうしてそんなに美味しそうなの?」
まずは彼女について
「俺のここには
少女の目が獲物を見つけた獣のそれになった。
「貴女が嗅ぎつけたのはきっとこれだろう。何せこれ以外は
しかし彼女は話など全く耳に入ってないかのようにじっと首元を見つめている。それどころか少しずつ前のめりになりながら腰を右に左にふりふり。今にも飛びかからんばかりの雰囲気に、思わず
「食べないから!」
彼女が此方だけでなく彼女自身にも言い聞かせるように言った。
「食べないから。……でも味見したいな」
「さっきしただろう?」
「そこは布の味しかしなかった」
「だとしてもだめだ」
「一口だけ!」
切実な瞳で乞う一口が本当に一口で済むはずがない。一口だけなら……と信じて許したが最後、もう一口、あともう一口だけ、と済し崩しに食べられる結末が目に見える。
「礼儀知らずになりたいのか?」
「ともかく、俺は少しばかり特別な物が付いているだけで、人間だ。それで、貴女は何者だ? 猫だと言っていたけど、耳を隠していれば人間にしか見えないぞ?」
それでも彼女は未練がましく首元を見つめていたが、此方の
「私は生まれも育ちも
自尊心の塊のである事はさておき、清貧なシャツにスカートを着こなした少女が、自分は元来猫だった、と言っても
「ある日、
一つ探りを入れてみる事にした。
「待て、一体どうしたら猫が人間の下僕を持てるんだ?」
「向こうから望んで
言葉に詰まる事もなく高慢な
それなら今の姿はどう説明するんだ? そう尋ねようとした矢先、威勢良く張っていた蜜柑色の耳が伏せられた。もしや話の腰を折った事に気を悪くしたかと案じると、彼女は視線を窓の外に移した。
「嵐に会って……。ぴかっ! って
小さな猫が荒れ狂う海に落ちたらば、本来まず助からないだろう。しかしこうして目の前にいるからには何とか生き延びたのだ。
「目が醒めると浜辺に私だけがいた。下僕も、他の
やはり奇跡的に助かったようだが、他の者にまでその奇跡が及んだかは分からない。かける言葉が見つからないでいると、テレネが視線を手元に戻し、
「そして私は気付いてしまった」開いた両手を恨めしそうに見つめながら「なぜか自分が………二本足になってしまった事に……」
テレネが異形である理由。それは彼女が人間へと姿を変えた猫だからだが、一体どうやって猫が人間になったのか。その最大の疑問についてはどうやら本人も答えを持っていないらしい。早くも彼女から引き出せるものが無くなってしまった事が残念でならなかったが、それとは別に、彼女の言い方には何か引っ掛かりを覚えた。まるで大切なものを失ったかのような言い草を
「私がこんな………こんなっ……みっともない姿に……」
「……まさかこの物語の悲劇は、自分が人間になった事だなんて言わないよな?」
琥珀色の瞳が驚愕の眼差しを向けた。どうやら当たりのようだ。と呆れると、なぜか彼女まで呆れた溜息をついて、
「あなたは四本足だった時の私を見ていないものね」
元の姿に並々ならぬ自信があるようだが、たとえ彼女の生まれ持った姿を見ていたとしてもこう考えるだろう。
「何かの奇跡でせっかく助かった上に新しい形になれたというのに、耳しか残らなかった事がそんなに——」
「耳だけじゃないよ!」
威勢を取り戻したテレネがくるりと背を向けたかと思うと、驚く間も与えずにスカートを下ろし、シャツを後ろ手にたくし上げて
ほのかな明るさを
両の尻が
ぴんっと立てられているその細長い尻尾は、先っぽが妖艶にくねられていた。
「あなたも讃えていいんだよ?」
肩越しに見つめるテレネは挑発的な笑みを浮かべていた。その笑みはきっと、残された真の姿への誇りなのだろう。察するに、
「綺麗だな。……耳と同じで」
琥珀色の瞳が訝しげな視線を寄越した。やはり間に合わせの言葉では物足りないか。と再び頭を働かせていると、彼女は興味を失くしたかのようにしゃがみ、下ろしていたスカートを掴んだ。感じる必要のない罪悪感が芽吹いた。反面、彼女が身体を仕舞ってくれる事には安心した。が、あろう事かスカートを手にした彼女はそれを放り投げた。
「おい」
「で、その後は羊に出会って世話になった。そこで二本足の事は色々教わったけど、いざひとりで出かけたらあの
俄かに登場した人間に通ずる羊がとても気になるが、今はそれどころではない。此方の動揺など気にも留めずに話を続けながら、彼女は靴に加え、上に着ていたシャツまでも脱いでいった。
次第に露わになる、すらりと伸びた体躯。ふわりと柔らかそうな、それでいて余分な肉は欠けらもないその
だというのに本人はこの造形がお気に召さないらしい。人間の女性だったとしたらあるいは、年齢どころか性別すら怪しくなるような胸を気にするかもしれないが、彼女は猫だ、そんな事を嘆いているのではないだろう。しかしそうなると一体全体この新しい形の何が不満なのだろうか。
そして、
「助けてくれて本当にありがとう。寝よ?」
まさかこれすら言葉通りに受け取れと?
「人間の男を褥に誘う事が何を意味するのか、羊は教えなかったのか?」
「あなたは匂いがしない」
噛み合わない応えに頭を抱えそうになる。対して彼女は、んーん、と一度否定してから言い直した。
「あなたは美味しそうな匂いしかしない」
微笑む獣の瞳、静かな舌舐めずり、甲高く輝く糸切歯。彼女の
「二本足の
端的に言ってテレネは可愛い。その顔を一目見れば、男なら程度の差こそあれ恋情を起こすのも想像に難くない。そしてどうやら彼女の鼻を以てすれば彼らの下心は筒抜けになるようだ。
「だけどあなたは私の体を見てさえ微塵も
煽情的に腰から歩くテレネ。一歩、一歩。追いかけっこを永く楽しもうとするかのように
「お魚さんじゃ猫は
この猫、俺のもう一つの秘密にまで勘付いてやがる……のか?
「俺は魚じゃない」と、
「それなら私も今は二本足だよ」と甘く誘う雰囲気を保ちながらも
「……俺には呪いがかけられている」
「二本足になったこと?」
「俺は初めからこの形だった。……はずだ」
物心ついた時には既に
人間となった猫を前にして、未だ明らかになっていない己の出自に考えを巡らせたくなる。しかし彼女の問いへの答えはそこにはない。よもや出会ったばかりの相手に、隠し通してきた秘密を二つも明かす事になるとは夢にも思わなかった。
「呪いのせいで俺は………欲情できないんだ」
テレネが
「この先もずっと?」
「いや……」
思わず答えかけ、これ以上は律儀に打ち明けなくともよい事だと気付くも、手遅れだった。
「呪いを解く方法は?」
見事に食いつかれてしまった。
「そこまでは言う必要がない」
きっぱり断ると、彼女は何かを思い出すかのように視線を宙へ向けた。
「二本足の物語では口を
「ははっ、口付けか。試してみるか?」
「歌だ!」
只でさえ大きい琥珀色の瞳が目の前でさらに大きく見開かれた。
「特別な歌だけが俺を男にする」
テレネは心底驚いたようにゆっくりと目を瞬かせていた。しかしゆっくりと綻ぶその目許、笑い出さんばかりに緩む口許。それはそれは大きな笑顔を咲かせた。
「……そんなに面白いか?」
「雌の許しがなければ盛ることがないのは当たり前だよ。二本足なのにその道理をわきまえられたのだから、あなたにかけられているそれは呪いじゃなくてもっとすてきな何かだと思うな」
応えが噛み合わない事にはそろそろ慣れつつあるが、やはりその真意は分からない。だからそれを尋ねようとしたその時。彼女が目を
「寝よ?」
とろんとした瞳で囁き、そっと手を引いてベッドへ
「食べないから」
胸中を見透かされていた。
「信用できない」と、柔らかな手を振り払って床に
「……何をしている?」
「二本足の寝床は気持ちいいけど、体を合わせて寝るに
そして
「今夜は美味しい夢が見られそう……」
背筋が凍りついた。夢の中で彼女が何を食べるつもりか想像がついて腹立たしい事この上ないし、寝ぼけて現実でも噛み付かれたりしたら
「せっかく
「じゃあ一緒に——」
「俺は床で寝る」
冷たく言い放つと、テレネの眉尻が寂しそうに下がった。心細げな少女を見ているとさすがに胸が苦しくなるが、まだ気を許す訳にはいかない。それに何よりも、この部屋で彼女と共に褥につく事はどうしてもできない。そう確固たる思いを胸に、壁際へと戻ろうとした。
急に腕を引っ張られ、よろめいてベッドに手を着くと、柔らかな手が優しく頬に添えられた。琥珀色の瞳と出会った。次の瞬間、テレネの鼻が此方の鼻にそっと
今度は此方が目を瞬かせていると、彼女は甘い蜜を垂らしたかのような瞳をゆっくりと開き、
「おやすみ」
「…………おやすみ……」
くるるるる。と、猫が満足げに
対して此方は呆然としながら静かに
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